1991年のモスクワの赤の広場とペレストロイカ
1991年の11月にぶらっと母と一緒にドイツの古城に旅行に行こうと、その当時、一番安い航空券を探したら、アエロフロートだったのです。
モスクワ経由のフランクフルト行きです。そして、モスクワでトランジットで、一泊が付いているというので、これは、興味深いということで、決定しました。
アエロフロートは座席指定がなく、空港でみんな一斉に走るんだよ・・と聞いていました。
成田からは、座席指定がありましたが、モスクワからは、やはり、座席が指定されてなく、走りましたよ。母も一緒に。あの当時は、まだ、若かったですからね。
1991年当時は、モスクワは、ソビエト連邦崩壊の直前の時代。1991年の12月25日にゴルバチョフ率いるソビエトが崩壊したのです。
ですから、ソビエト崩壊直前のちょうど1か月前くらいですね。
当時、ニュースでは、ソビエトは、物不足だと報道されていました。本当にその通りで、モスクワのホテルに滞在したのですが、夕食が待てど暮らせど、出てこないし、
次の日、モスクワの空港では、お店に何も売られていない状態。本当にこんなことがあるんだと、びっくりしました。
滞在の夜には、モスクワ観光ができるということで、参加しましたが、参加料が、アメリカドルで10ドル支払える人だけでした。
面白いことに、母がちょうど、2人分20アメリカドルをもっていたのです!なんとなく、入れておいたのよ~と。(ドイツに行くので、当時は、ドイツはマルク時代。なぜかしらねど、アメリカドルを持っていた母はスゴイ!)
ということで、モスクワの夜の観光ができたのでした。モスクワの街並み、赤の広場・・・ワクワクしましたね。
当時のゴルバチョフ政権のペレストロイカとグラスノスチ(情報公開)の言葉も聞こえてきました。
ペレストロイカ(ロシア語:перестройка、ラテン文字転写:Perestroika)は、1980年代後半からソビエト連邦で進められた政治体制の改革運動。ロシア語で「再構築(改革)」を意味する(“пере”〔ペレ〕は「再び」を意味する接頭辞、“стройка”〔ストロイカ〕は「構築」「建設」を意味する単語)。
グラスノスチ(ロシア語: гласность、glasnost)は、ゴルバチョフ時代のソビエト連邦においてペレストロイカ(perestroika、改革)の重要な一環として展開された情報政策である。日本語では「情報公開」などと訳される。
帰りの飛行機からは、下を見下ろすと、シベリアの凍土が見えました。ユーラシア大陸を直線に飛ぶ航路ですので。
ラフマニノフの曲を聴きながら、モスクワを思い出す
ロシアの作曲家のピアノ音楽が好きで、よく聴いています。ラフマニノフ、チャイコフスキー、スクリャービン、グラズノフなど。
ラフマニノフはロシア革命でアメリカへ移住したのだけれど、その時の自分の故郷を離れるときの気持ちを表現した、ヴォカリーズという曲もあります。
有名なラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、パガニーニの主題による狂詩曲 (第18変奏)、プレリュード、鐘、音の絵など、聴きどころ満載な素晴らしい曲ばかりです。
これらのロシアの曲を聴いていると、モスクワの赤の広場が頭の中に映像として蘇ってきます。
そして、語学学校のロシア人のクラスメートが作ってきた、ピロシキも思い出すかな・・・